いにしえの亀石

ビーグル号の航海日誌 2009年02月02日 00:23

071213nR_ГQ.jpg高知城と鏡川に挟まれた場所に山内神社がある。
御祭主は山内一豊公同夫人以下歴代藩主だそうだ。
初代山内一豊は、遠江国掛川(現掛川市付近)を治め、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将で、関ヶ原の戦功により土佐一国を封ぜられた。
時代は下り、15代の山内豊重(容堂)は、坂本龍馬の議を入れ、将軍慶喜に大政奉還を建白し、王政復古を実現に一役買った。
時代の流れとは不思議なものだと思う。
そんな山内神社の杜に囲まれた東参道の途中に「亀石」がありました。
不老長寿、捕陀落国伝説、浦島太郎だろうか、どんな意味があるのは分かりませんでした。

江戸時代末期になると幕藩体制に疲労や綻びがでてくる。
土佐藩も何度となく藩財政などの立て直しに直面し、乗り越えてきた。
しかし、幕末の立て直しは我が国の開国を含めた大きなうねりの中でそうはいかなかったようだ。
15代容堂公は吉田東洋を藩政改革に登用したが、東洋は武市瑞山を中心とする土佐勤王党によって暗殺される。しかし、その後瑞山らも容堂の報復で切腹に至ることになる。

大きなうねりに、土佐藩からは、瑞山の知己で郷士でもあった坂本龍馬や中岡慎太郎など藩を越え時代を動かした優れた人材が輩出された。
また、東洋の門下からは後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎ら新しい明治時代をけん引した人物も輩出されている。

土佐高知から、古き時代を壊し、新たな時代を想像した二種類の人材を排出したことは、土佐藩が山内系の武士(上士)と、長宗我部氏の旧臣(郷士)の二重構造を幕末まで続けていたことに起因するのではないかと想像してみたい。
今の日本にも同じようなことが求められているのではないでしょうか!

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