会津下郷大内宿の高遠そばの今昔

ビーグル号の航海日誌 2015年01月03日 20:00

141101高遠そば@エコカフェ.JPG高遠蕎麦なるものが会津地方で広まったのは、陸奥会津初代藩主の保科正之が信濃高遠の出身であったことにあるという。藩主正之が好んだ蕎麦、大根おろしをのせ、冷たいだし汁をかけただけのものをいつしか「高遠そば」と呼んだのではないだろうか。当然、当地でも蕎麦は食べられていた。[2014年11月1日撮影:会津下郷大内宿@阿部]

高遠そばのことを箸の代わりにネギを使うことから今日では「葱そば」の名称のほうが通りがよい。長葱の白い軸を箸代わりにして食べるのは後世になってのこと、きっと遊び心でしょうね。141101そば処玉屋@エコカフェ.JPG葱は辛いし、食べづらいことこの上ないのですが、これが却って観光客に気に入られているようです。さて、保科正之について少し触れておこう。時は慶長16年(1611年)5月7日、正之は徳川ニ代将軍秀忠の四男(庶子、隠し子)として誕生、6歳の時に信濃高遠初代藩主保科正光の養子となり、寛永8年(1631年)、20歳で藩主を継承。その後、幕府配慮により25歳の時に出羽山形藩主、さらに寛永20年(1643年)、32歳で陸奥会津初代藩主として会津に移封したんだそうです。

会津下郷の「高遠そば」はもはや伝統的な「高遠そば」ではなく、今日的な「高遠そば」、要は「葱そば」に進化している。それでも「高遠そば」を捨てるつもりはないといいます。そのほうが、人びとの心に余韻を残す語り掛けがあるということでしょう。


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