五台山清凉寺の由緒は

ビーグル号の航海日誌 2013年12月18日 23:33

五台山清涼寺(嵯峨野釈迦堂)@青柳n.jpgひとつの寺院も創建から今日までひとつ道を真っ直ぐに辿ってきたとは限らない。何度も戦乱にあったり、大火に見舞われたり、大地震にあったり、宗派の交代があったり、事情はそれぞれ異なるようだ。京都奥嵯峨野にある五台山清凉寺、「嵯峨釈迦堂」もそんな寺院のひとつであろう。[2013年11月24日撮影:京都嵯峨野@青柳]

元々この地には、源融公の山荘があって、没後896年(寛平8年)、子息が阿弥陀三尊像を造って阿弥陀堂に祀り、棲霞寺(せいかじ)とし、釈迦堂も建てられた。平安中期になり、「然(ちょうねん)上人が宋より持ち帰った釈迦如来像「三国伝来の釈迦像」を、弟子の盛算がそそ釈迦堂に奉り本尊とし、清凉寺としたという。当時、比叡山延暦寺に対応する南都系旧仏教の中心としようとの意図があったとも言われています。

中世以降には「融通念仏の道場」としても知られるようになり、1530年(享禄3年)に華厳宗から浄土宗に改宗し、今日に至るのですね。


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小倉山二尊院に古の栄華を

ニ尊院@青柳.jpg嵯峨野の小倉山の東麓にあって、大覚寺、天龍寺と並んで嵯峨野三名跡に数えられ、近代以前は皇室や公家と縁が深く、宮中の仏事を司る「寺院四寺」のひとつでもあった。天台宗の寺で、正しくは二尊教院華台寺という。[2013年11月24日撮影:京都嵯峨野@青柳]

創建不詳であるが承知年間(834年から848年)頃、嵯峨天皇の勅願により開基は慈覚大師円仁。本尊は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊。鎌倉時代に再興し法然の弟子の湛空、叡空が継いだが、室町時代に入り南北朝の乱、応仁の乱で再び焼失、三条西実隆らが再々興。総門は伏見城の薬医門を移築したと伝わり、奥に小倉百人一首の撰者と知られる藤原定家縁の時雨亭跡があったりする。二条家、三条家、三条西家、四条家などの公家の墓や土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を安置する三帝陵がありますよ。

少し奇異な感じがするのが、境内にある楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔の存在。その昔、絶世の美女「楊貴妃」が難を逃れ、小舟に乗り日本海に面する長門に漂着したという伝説が残るというが。


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檀林寺は古の彼方に

京都嵯峨野、祇王寺の参道途中にある檀林寺を紹介します。平安時代初期に遡る由緒ある寺だが、室町時代に廃寺となり、1964年(昭和39年)に浄土宗大覚寺派の寺として再興したとか。本尊は准胝観音菩薩。ところが、実際は骨董屋であって寺としての機能はないらしい。どうなっているのでしょう。[2013年11月24日撮影:京都嵯峨野@青柳]

檀林寺@青柳_n.jpg創建は815年(弘仁6年)、開基は嵯峨天皇の后橘嘉智子(檀林皇后)、開山は義空。臨済宗の寺であって京都尼五山第三位であった。盛時には塔頭・子院12坊がある平安初期の仏教文化の中心地、我が国で禅が初めて唱えられた寺とも伝えられる。応仁の乱後に衰退し後年廃寺。寺跡には足利尊氏により天龍寺が建てられています。

尼五山は室町時代に五山の制に倣い臨済宗の尼寺に導入。京都と鎌倉に定められた。京都尼五山は、景愛寺、護念寺、檀林寺、恵林寺、通玄寺をさすが往時の姿はない。


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