これなんだシリーズ(210)

⇒これなんだシリーズ 2013年01月27日 19:37

これなんだ@エコカフェ.JPGこんなに寒いのにがんばっています。
ふつうに生垣や林縁など、山地だけではなく都会でも見られます。
まだ小さく子どものようですね。
それでも葉の縁にはしっかりと鋸状の歯がついていますよ。
本来は有性生殖ですが、なかにはアポミクシスといって無融合生殖(無性生殖の一種)で増えるものもあるんですよ。面白いですね。
この仲間は種の残し方が多様なようです。
環境変化への適応性が高いといってよいでしょう。

ヒント:シダ植物です。


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松尾芭蕉と中尊寺金色堂

100820松尾芭蕉像@エコカフェ.JPG中尊寺毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山は、平成11年6月に「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録。同日に小笠原諸島が世界自然遺産登録に登録されたのだった。「中尊寺と仏教の変遷」で中尊寺の建立の経緯については紹介したので、ここでは文治5年(1189年)、4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)続いた藤原氏滅亡以降の変遷と松尾芭蕉の「奥の細道」について触れよう。[2010年8月20日撮影:中尊寺@阿部]

文治元年(1185年)に平氏滅亡、鎌倉時代が始まる。源頼朝が平泉に入り、文治5年に義経は自害、泰衡は家臣河田次郎に殺害、奥州州藤原氏は滅亡。この間に平泉諸寺院も荒廃。その後、中尊寺は源頼朝らの庇護のもと存続し、天治元年(1124年)上棟の金色堂には簡素な覆屋根がかかっていたが、正応元年(1288年)に鎌倉幕府命による修復の時に覆堂に造りかえられたという。100820金色堂覆堂@エコカフェ.JPG室町時代の建武4年(1337年)の大火で金堂を残して伽藍の大半を焼失、苦難が続く。江戸時代になって伊達氏の庇護下で再建を進め、寛文5年(1665年)には毛越寺や達谷西光寺とともに上野・寛永寺の末寺に。松尾芭蕉が「奥の細道の旅」で門人曽良をともなって平泉を訪れたのは藤原氏滅亡から500年の時を経た元禄2年(1689年)。芭蕉46歳、曽良41歳、芭蕉は平泉の古に生きる人びとの栄枯盛衰と極楽浄土への思いを胸に次のような句を詠んでいます。

夏草や 兵どもが 夢の跡
五月雨の 降り残してや 光堂


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春日山滝坂の道の磨崖仏群

120728朝日観音@エコカフェ(春日山).JPG思い出。春日山周遊コース、高山神社から山間を少し下ると柳生街道にぶつかる。この三叉路の辻には首切り地蔵が鎮座。左手に伸びるのが柳生方面へ、右手の沢沿いの滝坂の道では断崖に彫られた鎌倉時代の多くの磨崖仏を見ることができます。[2012年7月28日撮影:奈良・京都視察@阿部]

1番バッター。滝坂の道を少し下ったところで、右手の断崖壁面に3体の磨崖仏が見られます。通称「朝日観音」とあるが、中央は弥勒如来立像(高さ2.3m)で文永2年(1265年)の刻銘、左右は地蔵菩薩。左側の地蔵菩薩は錫杖・宝珠を持ち当初の作、右側の舟形光背の地蔵菩薩は錫杖を持たず春日地仏の姿であり後世の作という。
120728夕日観音@エコカフェ.JPG120728三体地蔵@エコカフェ.JPG2番バッター。さらに能登川渓流沿いに下がると右手の断崖上部の大きな三角形の花崗岩の巨岩に磨崖仏「夕日観音」がある。こちらも弥勒如来立像(高さ1.6m)、二重光背に、右手を下にのばし、左手を上げた施無畏・与願印である。
3番バッター。「夕日観音」の断崖下の岸壁には「三体地蔵磨崖仏」が彫られている。何れも右手に錫杖、左手に宝珠を持つが、風化が激しい。
120728寝仏@エコカフェ.JPG4番バッター。少し下ると通称「寝仏」、転落した大日如来の石仏があり、その下は集落になります。

他にもあるらしいのですが、時間の関係でゆっくり観察しながらの散策となりえなかったので残念でした。機会があったら新緑や紅葉の頃に訪れるのがよいかもしれませんね。


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